戦国の覇者とは、「プロパガンダ」のチャンピオンである
ビジネスマンもヒントにできる戦国武将の策略
■織田信長最大のプロパガンダ―本能寺の変
信長の生涯に関しては、小著『大間違いの織田信長』(KKベストセラーズ、2017年)で詳述しましたので、今回は1つだけ。
信長最大のプロパガンダは、本能寺の変です。
信長は最も信頼していた部下の明智光秀に囲まれ、死を悟ります。そこで何をしたか。自分の死体を隠すことです。これは効果覿面(てきめん)でした。
信長の敵討ちに舞い戻った羽柴秀吉は、「信長公は生きている」という情報を流しまくって事態収拾の求心力にしました。「もし信長が生きていて、明智についたということがわかったら、後で何をされるかわからない」というわけです。当時の評価では、明智光秀は信長の親衛隊長にして最強の武将であり、秀吉が勝つと思っていた人は誰もいませんでした。しかし、秀吉のプロパガンダは絶妙で、下馬評を覆して山崎の戦いで明智軍を倒します。合戦が始まったときには、秀吉の方が数倍の勢力になっていました。プロパガンダの勝利です。
秀吉は、山崎の戦いも見事でしたが、その後がもっと秀逸でした。織田家を乗っ取り、かつ自分を悪者にさせなかったのです。
信長の後継者候補の2人の息子、信孝と信雄の関係は極めて険悪でした。秀吉はこの2人の対立を煽りまくり、最初は信雄側について天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いで信孝を切腹させ、翌年の小牧長久手の戦いでは、信雄と組んだ徳川家康と戦います。
緒戦ではデマを流して家老3人を信雄に殺させ、膠着状態に入ると圧力をかけて信雄に単独講和を結ばせます。さらに、手強い家康もまた大坂に呼びつけます。信雄に官位を与えて主家をないがしろにはしないというアピールをするとともに、自分よりは下に置きます。天皇の権威で、自分が上にいることを周囲に納得させるのです。
天正18(1590)年、小田原合戦で秀吉は天下統一を果たしますが、その後の国替えに反発した信雄を放逐しました。織田家乗っ取りの完成です。
秀吉のプロパガンダは今も生きています。明智光秀はいまだに「主殺し」の代名詞です。
平成24(2012)年の自民党総裁選で絶対本命と言われた石原伸晃氏が迂闊な行動を繰り返し、「平成の明智光秀」のレッテルを張られて落選したのを鮮明に記憶している人も多いでしょう。現代においても、「明智光秀」は裏切り者の代名詞です。
それに引き換え、秀吉のことを「主殺し」「主家乗っ取り」「恩知らず」と言う人は、まずいません。
戦国の覇者とは、プロパガンダのチャンピオンのことなのです。
<『プロパガンダで読み解く日本の真実』より構成>